生きる価値を決めるのは?

 

 

 

 

死刑で結審したやまゆり園の大量殺人事件。接見を重ねた、自身も障害者の子供を持つ教授の言葉が重く響きました。

 


あの犯人が許されないのは当たり前の話です。個人的には心身の喪失云々も殺人を犯す精神状態がまともな訳はなく、殺人に関してはそこを考慮に入れなくても良いのでは?と思っています。個人的な感情で、倫理的感情ではないので、議論するレベルにはないですが。

 


問題は犯人個人の事ではなく、この今の世界に流れるムードです。僕もずっと気になってる事。教授は、なぜ彼があんな考えに取り憑かれたのか、しかも「僕の考えへの賛同者も沢山いるんです」と力強く言えたその根拠。それを明らかにしないことには…と力説してました。

 


最近は必要か不要かで切り捨てられる事が多すぎる気がしてます。ホリエモンこと堀江さんが、仕事をしないおじさん達をどうにかして一掃出来ないかライブドア時代に考えていて、それが今回のコロナ騒ぎのテレワークで達成出来るかもしれない、と言ってました。いらない人を炙り出せると。これは経営者の視点で見れば至極真っ当です。でもこの論理を一般社会にまで当てはめている人が多すぎるように感じます。

 


この人は社会に貢献出来ている。それを誰が判断するんでしょうか?企業だったら利益を生み出す人です。その仕組みを作れる人です。でも、生きるということはそんな単純な事じゃない。いてくれるだけで嬉しい。そんな闇雲な感情だってあるんです。その人の価値はいろんな人の考えや感情が入り混じって決まるんです。そしてどんな命にも誰かから見たら価値があるんです。極論すればこの犯人の命にだって価値がある。そのくらい命には価値がある。

 


この事件のニュースを見ながらそんな話を小学校四年生の娘にしました。訳がわからなかったろうけど、お父さんが真剣に考えてる事は伝わったと思います。そして自分が今持ってるもの、置かれてる環境はとても幸せであることを忘れないように言いました。黙って頷く顔はまっすぐ前を見てました。

 


社会的に見たらダメな人を不要だとは思いたくないです。無駄が色んなところに見える世界を愛してます。世界が快適に美しく調和する為に、そういう人が排除されるのなら、僕は多少の不便は受け入れたい。完璧な世界は求めない。

 

今回の事件はとても、とても考えさせられました。生きる価値は誰かに決められる事じゃない。