おじさんとおじいさんの境目

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もう自分もおじさんからおじいさんに近づいて来て、老いに敏感になって来た。1番気にしてるのは腕が上がるかどうか。今の所50肩ってほどの症状は出てないけれど、ウォーキングのたびに腕をブンブン振り回して歩いている。たまにデューク更家的に歩いたり。でもそんなに体力の低下とか、集中力の低下とかは感じていない。所謂ヤングなおじさんである。まああっちは全盛期を過ぎた感はあるが。笑


客観的に見たら、おじいさん認定をどこでするのか?最近周りのおじさん達、しかもおじいさんに近づいてるおじさん達を見ながら考えている。

一つは前から思ってた耳毛。耳の中に毛が生えて来たらおじいさん認定。最近は気がつくと耳から毛が生えていて、びっくりする。

そして最近強く思うのは眉毛。眉毛の事が気にならなくなって(多分見えないから)、とても長い眉毛がちらほらあると、その人はおじいさんなんだなと思っている。この二つはとてもわかりやすい。

そしてこのロールモデルははっきりしている。僕らの世代はみんな見ていただろう。それは村山富市元首相。社会党で、初めて自民党と組んだ人。あの人の眉毛と耳毛は、おじいさんにふさわしい。


まだ孫ができる気配はないけれど、姪っ子には子供が産まれ、何となく孫の気分は味わっている。徐々に徐々に、自分がおじいさんに近づいているのを感じる。面白いのは、それを悲しく感じない事。娘が出来て、若い女の子にモテたいなんてのは恥ずかしいと思うようになった。今でも妙に若くて、イケイケな友達を見るとなんだか気恥ずかしくなる。正直言ってうわっ!って思う。申し訳ないが。これが親になるって事なんだなと感じる。こうやって人は枯れていくんだと思う。


そして自分が枯れていくことに全く悲しみを感じていない。むしろ喜んでいる。やっと俺もここまで来たかと。この感覚は友達と話していると、完全に理解する人と、全く理解できない人に真っ二つに分かれる。ここで人間は二つに分かれるんだなと思う。それは誰かのために生きる人と、自分のために生きる人。どっちが良いとかはない。でも自分の為に生きる感覚は誰もが元から持っていて、誰かの為に生きる感覚は持っている人にしかわからない。この違いは意外に大きいなと感じる。


おじいさんになると、1番大事なのは健康。健康の上に全てが成り立つ。体のメンテナンスをしながら、なんとか生き抜きたい。長生きをしたいわけではないが、誰かの悲しい顔は見たくないから、なんとか長生きしたいと思う。


あぁ、明日は通夜に行くから変なモードに入ってるな。生きるって大事だよ。死にたくないではなくて、生きなきゃなと。そんな風に考えてる。まあそんなのは運命だから、どうにかなるもんじゃないんだけど。