昨日はインプットの日って事で坂本龍一さんの大型インスタレーション作品を集めた個展「坂本龍一|音を視る 時を聴く」を観て来ました。体験して来たって言葉の方が似合うかな。ずっしり心に響いた。
時間の芸術である音楽の人なので、タイトルにもあるように「時」というものがとても意識されていた。あと水ね。あれは波紋が音を視覚化したように感じるからなのか?それとも水という形を持たないものに対する興味なのか?もう答えは誰にもわからない。
全ての作品が良かったけれど、高谷史郎さんとのコラボ作品がとにかく良かった。特に《LIFE–fluid, invisible, inaudible…》は完全に心を射抜かれた。見た瞬間にこれは!ってなった。
あと《async–immersion tokyo》も。この2つを行き来して、何度も興奮して声をあげそうになった。
しかもこの後に教授の頭の中を見れるような、様々な手書きのメモが展示されいて、その書いてある内容が興味深くて貪るように見てた。自分と同一視なんて出来ないけれど、自分がいつもこうやって文章に書いてるような疑問や気付き、そういったものがメモされており、教授のような人でも日々考えて、創作に向かっていたんだなって事が良くわかる。
クラシックの世界は、元々全てを作曲者がコントロールして、全てを把握して作られるような、そんな音楽だった。解釈はあるとしても。
そこから現代音楽の方向に進むにつれて、偶然性や不規則性、とにかく制御できないものを音楽の中に入れるような表現が多くなっていく。それは教授の世界にも多く含まれる。その感覚はエレクトロニクスミュージックのような数値で操れるようなものにも徹底されていて、不規則性や偶然性への拘りを強く感じた。その感覚は、現代の音楽家に共通するものなのかなと思った。自分の頭の中だけで出来ている音楽にはあまり興奮しない。どこかにマジックが欲しい。そんな感覚。
音楽を作る時、結局は生活や宗教、性、モラル、時代の空気、歴史と、あらゆるものに影響を受ける事になる。それは教授のような現代音楽の世界だけではなく、ポップミュージックの世界も含まれる。音楽は世界を無視しては作れない。時代や歴史も無視しては作れない。そんな事を強く感じた。僕のような流行歌を目指す、ポップであることを信条とするようなミュージシャンでも、その流れの中にある。それを忘れてはいけないなと、この個展は教えてくれた気がします。
日本には坂本龍一という偉大な音楽家がいて、素晴らしい作品をこの世に残している。その事にただただ感謝する気持ちが溢れた。最後に残ったのは、そんな気持ちだった。
作品は永遠で、最後には時を超えるのかな。