久しぶりにスーツにネクタイで出掛けている。葬式の時以外、ネクタイなんてしなくなった。会社に行かなきゃいけない時でも、ノーネクタイ当たり前。
昔はネクタイを締める事がとても嫌だった。窮屈なのもあるけど、音楽がうまくいかない中、結婚をする為に就職した自分には、首に鎖をかけられているような気分だった。なので仕事が終わるとすぐネクタイを外してた。でも今は、ファッションとしてネクタイがあった方が良いなら、そのまま締め続ける気がする。
ネクタイが鎖だなんて、言いがかりもいい所だ。ネクタイが可哀想だ。勝手に繋がれてる気分になって、不貞腐れてるだけだったと、今ならわかる。何かが上手くいかない時、その理由を自分の中に探すか、それともどこかに探すかで、人の成長は変わる。でもどうにもならない時に、自分の中に理由を探すタフさがある人は、そんな境遇にもならないとも思う。だから、僕らはいつも不貞腐れる。
でも、不貞腐れても何も変わらない事実に気づけば、人は自分の中に理由を探し出す。そうなったら少しは前に進む。あとは不貞腐れる期間がどれくらい長いかだけなんじゃないかな。違いは。いつかは誰でもわかる事。
誰かの指摘で気づけば良いけど、不貞腐れる人に他人の声は届かない。だから自分で気付くしかない。不貞腐れたままの人生が嫌ならば、それしか道はない。今の自分は気づけているのだろうか?
ネクタイを締めて乗った、小刻みに揺れる新幹線の車内で、そんな事を考えた。新幹線は前に進んでいる。