
この間のM-1の事をまだ考えてるのだけど、漫才ってのは型があるんだなってことがよくわかった。いやプロの人とか、マニアの人からしたらそんな事知らないの?って事だと思う。でもただのお笑い好きとしては、ミルクボーイみたいにわかりやすければ、「型」がある事は理解できるけど、それ以外の「型」を意識したのは初めてだった。
今回の決勝の3組には、本当にわかりやすく「型」があった。たくろうは、説明不足なまま、受け入れてないのにやらされる型。エバースは、意味のわからん事を押し付けられながら、なぜか引き受けてしまう型。ドンデコルテは、よくわからないまま説き伏せられる型。みんなそれぞれ押し付けられる側がいて、その中で押し付け方が面白かったり、押し付けられた側の戸惑いが面白かったりする。
この「型」を見つけるのが大事なんだなと理解した。そしてそれはアイデアがあれば良いわけではなく、それが自分らしさにフィットするのが大事なんだと思う。特に押し付けられる側。たくろうの赤木のオドオドなんてまさにそう。エバースの町田の文句言いながら押し切られる感じも人にピッタリだ。
それは音楽にも共通する。音楽もオリジナリティが大事で、そのアイデアを探し求める。でも大事なのは音楽的アイデアの革新性ではなく、自分の人間性とそのアイデアがいかに共鳴しているかどうか。それが大事。
音楽に人を求めるべきか問題というのもある。音楽と人間は関係がないという人がいる。音楽と人は分けるべきと。わかる。理解も出来る。でも、やっぱり音楽には人がはみ出して来る。滲み出して来る。それを止めることは出来ないと自分は思ってる。だから、人と音楽の組み合わせは大事な要素の一つで、無視したら音楽は上手くいかない。
漫才を見てても音楽の事を考えてしまう。何を見ても音楽に繋げて考える。それは自分の真ん中にあるものが音楽だから。音楽を中心に据えて、ずっと生きている。生きて行く。